
「俺といて後悔させない。だから、付き合えないか。どうしてもダメか」
わたしは口説かれていた。とある冴えない、歳は40代後半だろうか。失礼だが、最初は冗談かと思った。自己管理ができないというレベルを通り越したビール腹に、無精ひげの伸びきった顔。
だが、思ったよりも彼は本気だった。マメにメールをくれたし、電話もたまにあった。出たことなかったけど。
彼はよくいる風俗客の一人で、少し色恋がブレンドされたような、そんな男性だった。毎回どこかで買ってきたケーキを振舞ってくれたし、お土産もくれた。よくありがちな、「風呂場が寒い」だとか「部屋が寒い」だとか言うこともなく、しっかり女の子への配慮もしてくれた。
そんな男性とわたしのお話である。
俺のことイヤじゃないなら、彼氏彼女ごっこしようよ
「久しぶりに見つけた」
扉を開くなり、彼はそう言った。
「こういう子を、俺は探していたんだ」
ギュッ。いきなり抱きしめられ、少し困惑するわたし。だが、気に入ってもらえて嫌な気はしなかった。
「ありがとう。みうって言います。よろしくね」
彼は終始テンションが上がった様子で、わたしに色々なことを聞いてきた。主に、わたしの出身地はどこだとか、年齢はいくつだとか、学校はどこだとか、そんな話題が多かった気がする。
当時、わたしは学校から少し離れた所に住んで通っていたので、適当に最寄りの大学を調べて伝えていた。おそらく、八割方の女の子がそういう設定を用意しているだろう。
「俺のことイヤじゃない?それなら、彼氏彼女ごっこしようよ」
「え、何それ?」
実はこの提案、よく客に言われる。今となっては聞くたびにウンザリするセリフだ。要するに、彼氏のようにサービスしてくれということである。当時はまだ風俗を始めたばかりで、そのフレーズが新鮮で素敵な誘い文句に聞こえたのだった。
「俺のこと彼氏だと思って、今日は過ごして」
「うんっ」
その“一日彼氏”は優しかった。「彼氏でしょ?」と何の躊躇いもなく生で挿入されそうになり、断った。嫌そうな顔をしながら、渋々ゴムをつけていた。
俺、収入ないんだ。でも、幸せにできる
二度目か三度目の指名のとき、彼は言った。
「実は俺、すごく無理してお金を作ってるんだ…」
薄々それには感づいていた。彼の家に呼ばれるたびに、ローン会社の手紙が置かれていたからだ。
「俺は収入はない。でも、好きだって気持ちは真剣だ。なかなか君の周りで、俺ほど真剣に君を思う奴はいないと思うんだ」
「仕事は辞めなくてもいい。嫌だけど、それだけの収入を支えられる財力は俺にはない。俺は真剣だから、俺なら君を幸せにできる」
(幸せって何だろう)
彼の告白…もはやプレゼンを聞きながら、わたしはそんなことを思った。
誰かと付き合うことが幸せなら、わたしは今まで、誰と付き合ってもほんの一瞬の幸せしか味わえなかった。彼氏がいるとか彼女がいるとか、そんな些細なことでみんな幸せを感じられるのだろうか。むしろ、窒息しそうな変な息苦しさを感じる事が多かったのに。
「ありがとう。でもわたし、こんな仕事だし、ヤキモチ妬かないかな?わたしなんかじゃ、申し訳ないよ…」
「そんなことない。俺は、そういう部分も含めて君だと思って好きになったんだ」
彼は憤慨したように言い返した。
(でも、でも…)
この言い返しに、わたしはむず痒いような違和感を覚えずにはいられなかった。身勝手だとは思うのだが、嫌悪感すら感じるような、そんなむず痒さだった。
風俗嬢である事も含めてわたしだなんて…そんなバカな話があるだろうか。自分で選んだ仕事だけれど、決してこの仕事を認めたり、誇りに思ったりなんてしたことはない。むしろ、どこか拒絶して自分を切り離しながら、いつも仕事をしているような感覚だった。それを、「そういう部分も含めて」という言い方をするなんて。
「ちょっと、考えさせてね。まだ知らないことも多いし」
「そうだよな。それは分かってる。だから、一度どこか遠くにでも行かないか?仕事休み取ってさ。それで旅行にでも行って、お互いを知ればいいと思うんだ」
「ねぇ、その数日のためにわたしは10万以上失うんだよ?」
喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。
彼の言っていることは全然おかしくはない。むしろ、真摯にアプローチしてくれていることはよく分かる。こんなわたし相手に。それなのに…わたしの気持ちは、まるで揚げ足を取るかのようにすれ違ってしまう。
ねぇ、最後に一つ聞いていい?
彼への返事を曖昧に濁したまま、何週間かが過ぎた。もちろん、付き合う気はさらさらなかった。一応、お客様として繋がる可能性も捨て切れなかったし、お店で働いているからバッサリと振るのも考え物。そう悩んだ末の沈黙である。
彼の電話もメールも無視した。申し訳なかったが、音信不通にして、そのまま忘れられるのが一番の良策に思えたのだ。
そしてある日。わたしはいつものように出勤し、見覚えのある道路に出た。彼の家の近くだ。
「本指名の人。何度か呼んでるよね?この人」
ドライバーさんが話しかけてくる。
「この人も長いお客さんでね。大体3回ぐらいで色恋で重たくなって、付き合って付き合ってって感じでコロコロ指名が変わるんだ。みうちゃんも、言われてない?」
(あぁ…この人もやっぱり)
わたしはやり切れない変な無気力な気持ちのまま、ドアを叩いた。彼が神妙な面持ちで出迎える。いつもなら笑顔で迎えてくれるのに、今日は強張った表情。最後を覚悟しているのだろうか。そして、彼は同じような最後を、一体何人の女の子と迎えたのだろう。
「俺と付き合う気は、ないみたいだね」
コーヒーを淹れながら、彼が言う。まるで家に遊びに来た彼女のように、彼はいつも優しかった。暑がりの彼には汗をかいてしまうほどの温度でエアコンをつけ、風呂にはしっかりとお湯が張ってある。いつもの、いつもの優しい彼だった。
「…悩んでるんだけど、やっぱりお仕事辞めるまでは無理かな…」
「そっか…ふうぅ」
彼はタバコの煙を吐き出した。部屋が一気に煙たくなる。そして、しばらくの重い沈黙。それを割いたのは、彼の衝撃の一言だった。
「ねぇ、最後に一つ聞いていい?ネットの掲示板、見たことある?『基盤』ってホントなの?どうして俺にはヤらせてくれなかったの?」
みうは基盤嬢
当時、わたしは決して基盤嬢ではなかった。基盤どころか円盤もしなかった。それが出来るのなら、ソープの方が稼げるのは明白である。
では、なぜ掲示板にそんな事を書かれていたのか。わたしは彼に指摘され、『みうは基盤嬢』の書き込みを目の当たりして急に怖くなった。本番できなかった人が書き込んでいるとしか思えない。
管理人の補足「基盤」と「円盤」について
どちらもネットスラング(インターネットから発生し、使用される俗語)。本番が禁止されている風俗店で、嬢との交渉により本番を行う事。
「基盤」は交渉時に金銭が絡まず、「円盤」は金銭を渡しての本番行為を指す。
わたしは決めた。HPの表示を消してもらおう。Webからの写真指名は取れないものの、本指名やフリーは受けられる。それでいいやと思った。
すると、わたしの基盤ネタはそれきり何も書かれなくなった。気になって何ヶ月か覗いていたが、わたしを名指しする書き込みはついに一件もなかった。
件の書き込みは、明らかにキャストしか知り得ないような、待機中などでの情報が非常に多かった。これは単なる推測なのだが、わたしの偽の基盤情報を書き込んだのはおそらくキャストだろう。
その後、ナンバー表示をせず、こっそりと在籍を復活させたのだが、やはり書き込みはされないままだった。
最後に
わたしは彼のあの一言が忘れられない。今でも、「幸せ」だとか、そんな言葉を聞くたびに、なぜか彼の一言を思い出してしまうのである。トラウマだなんて綺麗な言葉で誤魔化す気もないのだけれど。
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