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もうダメだと思ったときに読むべき記事 「四肢切断という絶望」

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もうダメだと思ったときに読むべき記事 「四肢切断という絶望」

【EGweb】運営者江川

「見えない・聞こえない・話せない」という3つの苦しみを乗り越えた「奇跡の人」として、ヘレン・ケラーの名前はあまりにも有名である。

 しかし、彼女が来日した際に、「あなたは私より不幸、でも私より偉大です。あなたこそが奇跡の人です」と言わしめた日本人女性がいたことをご存知だろうか?

 その偉大な彼女の名前は、中村 久子である。

中村 久子 Profile


写真
職業
作家・興行芸人
出生年
1897年
出身地
岐阜県

四肢切断を乗り越え、辛苦に打ち勝った波乱の人生


▼ 久子は、3歳のときに凍傷が原因で突発性脱疽症に冒されてしまう。
『突発性脱疽症』
特発性脱疽(だっそ)とは、手足の爪の周りや指の間に、治りにくい傷ができ、ひどくなると足の指が腐ってくる疾患。
 そのため、両手の肘と両足の膝から先を、切断するしか助かる道はなかった。
 
 その後も不幸が訪れ、7歳のときには父が他界する。
 母親は、両手両足のない彼女に対してかなり厳しく接した。
「自立できるように」という強い想いが起こした行動である。
 想いは実り、久子は1年がかりで自力で食事ができるまでになった。
 
 それができると、彼女は掃除や炊事も命じられるようになる。
 その厳しさは、「本当に実の親か、鬼ではないか」と久子に思わせたほどである。
 さらには舌や口、短い腕を使って裁縫を命じられた。
 母親が出稼ぎに出ているあいだは、代わりに祖母が彼女を厳しくしつけた。

 母や祖母は、久子を特別扱いすることはなかった。
 普通の子と同じように接し、同じように教育もしていった。
 彼女はそのスパルタぶりに押され、裁縫や習字を必死に習得した。
 そのかいもあって、10数年かけて着物を縫えるまでになったのである。
 
 しかし、自分に数々の無理難題を押し付けた母親を恨み、「こんな想いをするのなら、死んだほうがましだ」とまで想い悩むこともあった。

生きるために


 やがて20歳になった久子は、見世物小屋の舞台に立つことになる。
 それは彼女の意思ではない、母と再婚した義父の嫌がらせであった。
 当時は、障害者が生き抜くために見世物台に立つことは決して珍しくなかった。
 彼女は自らを「ダルマ娘」と称し、舞台では母親の教育で習得した裁縫や習字をしてみせた。

 しかし、客からは「こんなもん芸とは言えない」などとバカにされ、所属する一座の座員からもいじめ抜かれ、生きるためとは言え辛い日々を過ごした。

 そんなとき、久子を見たある書道家が、彼女に「書道を指導したい」と申し出た。
 このとき、彼から「泥の中の一輪の蓮であれ」という言葉をかけられた。
 泥沼のような今の人生でも、その中で輝く蓮の花になることを誓った彼女は、これをきっかけとして考え方が変わった。
 この言葉をしっかりと胸に刻み、人生を生き抜いていく決意をしたのだ。

 のちに一座の同僚と結婚し、無事に長女を出産する。
 子から母になったことで、今まで毛嫌いしていた母親の愛情にようやく気づいた。
「手足がなくても生きていけるようにしてくれたのは、母のおかげ。この体が私を辛苦から救ったのだ。感謝しなければいけない」という想いに至ったのだ。
 
 だが、その母は久子の巡業中にすでに亡くなっていた。
 死に目に会えず、感謝の気持ちも伝えられなかった彼女はとても悔しくなり、人知れず涙を流した。

手足がないことに心から感謝する


 さらに悲運は続く。
 結婚3年目にして夫が急死してしまう。
 再婚して第二子を授かるが、ほどなくして2度目の夫にも先立たれてしまう。


 残された2人の子を育てるために、久子は見世物小屋で休む暇もなく働いた。
 ヘレン・ケラーと出会ったのはそんなとき、昭和12年のことだった。
 その対談をきっかけとして、久子のことは新聞などに大きく取り上げられ、彼女の存在は全国に知れ渡るようになった。

▼ その頃、陸軍病院を尋問して傷痍軍人たちに芸を披露する機会を得た。
『傷痍軍人』
復員後にまで健康や生活に深刻な影響をもたらすような、大きな戦傷を負った軍人を指す。
 彼女の書道や裁縫術はもはや神業の域にまで達しており、心や体に傷を負った彼らはただただ感動した。
 一通りの芸が終わったあと、久子の公演を聞いて、ほとんどの軍人はついに涙を流した。

 両手両足を失いながらもそれを感じさせず、ひたすら強く生きるその姿は、彼らに大きな勇気を与えたのだ。

新たな道へ


 その日をきっかけに、久子は見世物小屋に別れを告げ、全国を回るようになった。
 3度目の結婚をし、新しい家族とともに講演活動に精を出す日々が続く。

 しかし、彼女の胸の内には大きな疑問が湧き上がってきていた。
 やがて、「今の私が障害があることを自慢しているかのようだ。こんな私が、多くの人様の前で偉そうに語る資格があるのだろうか」と自問自答するようになる。
 日を経るうちに、感謝の気持ちを忘れていることに気づいた久子は、自分を育ててくれた見世物小屋にもどる決心をした。

 結局3度目の夫とは離婚してしまい、家庭面では恵まれなかったが、37歳のときにようやく一生を共にする男性と出会う。
 彼はいつも笑顔を絶やさないような、温厚な人柄だった。
 その献身的なサポートは、久子にとって大きな心の支えとなった。

 その後は講演活動や執筆活動にも復帰し、孫たちにも囲まれて幸せな余生を過ごし、72歳でこの世を去った。

 講演会では、彼女が常に強調していたことがある。

「手足がなかったおかげで、私はたくさんのことを学ぶことができました。ときには厳しい母を憎んだけれども、生きていくための厳しさを教えてくれたことにただ感謝しています。母がいなければ、今の私はいませんから」

最後に


「手足なき身にしあれども 生かさるる 今のいのちは尊かりけり」
 
 久子が詠んだこの短歌を、「もうダメだ」と思っている人たちには強く噛み締めてほしい。
 彼女は書道家に言われたとおり、まさに輝く蓮の花のように人生を力強く生き抜いたのだ。

 どんな人生にも決して絶望はない。
 あるとすれば、希望を持ち続けてやり遂げる何かである。

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この記事の著者

職業:R-18ブロガー【EGweb】運営者江川
『役に立つ記事の提供』がモットーのR-18案件専門ブロガー。
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