
異性に対してする王道の話題で、「これは困るだろうな」と感じる1つの質問がある。
「好きなタイプは?」
俺は正直、この質問をすることに意味はないとすら考えている。
その理由は主に2つあり、言語の多義性と人間の両面性に起因する。
まずは、言語の多義性について考えていこう。
たとえば「優しい人」と一口に言っても、人それぞれ「優しい」の意味合いは違ってくる。
「黙って自分についてきてくれることが優しさだ」と言う人もいれば、「ワガママを許してくれるのが優しさだ」と言う人もいる。
俺の場合は、「女性のことを認めて褒めてあげる」ことを優しさだと考えている。
その他にも、女性がワガママを言ったり、筋が通っていないことをした時には、注意することを「優しさ」だと感じている。
このように、同じ言葉で表現していても、各個人によって求める本質には大きな違いがある。
これが言語の面白い部分でもあるし、同時に不自由な部分でもある。
とくに初対面の人間同士では、この不自由さが前面に出やすい。
そのため、自分のタイプを言語化することはあまり意味を成さない。
次に、人間の両面性について考えていこう。
男性が女性と話していても、「好きなタイプは?」と聞かれることがある。
自分なりに答えた上で、相手にも聞いたほうが良いと思って聞き返すと、返信メールにこんなことを書いてくる人をよく見かける。
「甘えさせてくれる人」「引っ張ってくれる人」「ドMだからSな人」
このような「好きなタイプ」を見ると、俺はつい首をかしげてしまう。
どんな人間でも、常にしっかりしているかというとそんなことはない。
普段はイジられている人だって、つい意地悪したくなることもあるだろう。
いつもSな態度を取る人だって、時々は甘えたいと思うときもあるだろう。
そして、相手によってキャラクターが異なってくるのが当たり前だ。
家にいると両親に対して威張り散らしているが、学校ではあまり会話をせず友達も少ない。
「内弁慶に外地蔵」がまさに典型的な例である。
コミュニティによって立ち位置が異なるのは、円満な人間関係を築く上で重要な要素だからだ。
本来、人間はこのように両面性を持つ生き物である。
そのため、最初から「自分はこういうタイプです!」と一面性を主張してくる人は、「私はこういうタイプだから、あなたが私に合わせてね」と言っているのと同じなのだ。
つまり、どれだけ忠実に「好きなタイプ」を言語化したからといって、常に同じスタンスを取れるわけではない。
以上の理由から、俺は「どんなタイプが好きですか?」というほど虚しい質問はないと考えている。
もちろん、知り合ってから長い時間が経っていて、お互いのことを理解しているならばこの限りではない。
そもそも、楽しく話ができる人というのは、こういった野暮な質問はしない。
この質問が初期の段階で出てくる時点で、「話の引き出しが少ない」というレッテルを自分で自分に貼っているのだ。
「じゃあ、相手の好みを聞くにはどうしたらいいんだよ?」
このように憤慨する人もいることだろう。
そこで、俺から1つ提案がある。
「好きなタイプ」ではなく、「嫌いなタイプ」を聞いてみることだ。
好きなタイプは時間によって移れども、『嫌いな人・受け付けない人』というのはそうそう変わるものではない。
そして、好きなタイプよりもはるかに言語化しやすい。
その質問は有益であると同時に、相手にとっても返しやすいだろう。
話を弾ませるための1つの手段として、ぜひ使ってみてはいかがだろうか?
コメントする(承認制です)